前進って何だ?退化なんて誰が決めた?

近頃盆栽(ひいては鉢も)に通じると思われる茶室の美という物について
書物を漁ったりして勉強しているのですが…(人間って自分が興味持った事については
行動早いですよね…中学高校時代も少しはフツーの勉強に興味持てば良かったのに…)

そうするとだんだん仏教とかそういう物が絡んできて、多分に精神的な要素が入ってきます

日本で宗教というと…世にはびこるカルトのせいか教祖が信者から
高いお布施をぼったくるようなとても胡散臭いモノというイメージが定着していますが

何のことはない、つまり宗教とは哲学・人生観ということなんですよね。
日本の宗教観を学ぶという事は、日本の先人達の美意識、精神性を辿る行為でもあるのです

そんな感じで近頃ZENISM(海外での禅の精神の呼び方)について勉強しているせいか、
どうも近頃鉢を作っていてもそういう抽象的な事に考えが及んで止まりません。

キャント ストップ マイハート。
ドントゴーアウェイ アイキャントセイグッバイ(おかず無し)
 

近頃いよいよもって強く思うのですが、目が肥える・審美眼が養われるという事は
本当にそれは進歩と言えるんでしょうか?

絵画、音楽、彫刻…あらゆる芸術と呼ばれる物がそうだと思うのですが、
入門者が鑑賞して凄いと思う物と、その道の鑑賞通が高い評価をする物とは
往々にして一致しないという事があると思います

それは鑑賞通が見るべき所を知っており、注意を凝らして鑑賞する部分が
入門者とは違うからです

しかしちょっと見方を変えると、鑑賞通は素直でまっさらな感性を失ってしまったとも
言えるのではないでしょうか?
だって入門者の「これは美しい、好きだ」という意見を「にわかが…」と言って
まるで相手にしないようになってしまったのだから。


これは盆栽についても言えます。

私自身始めた頃は全く良いと思わなかった盆栽の画像を、今見てみると
すごく良い盆栽に感じてしまったりするのです

そういう時私は「お、自分も少しは目が肥えたんだな」と思うんですが、
しかしそれと同時に「だんだん自分の感性も盆栽慣れしてきて
しまったのかなぁ…」とも感じます

断っておきますが、私は審美眼が鍛えられる事が悪いと言っているのではありません。
ただ、どちらが良いとも言えないような気がしているのです

プラスマイナスゼロといいましょうか。


さて。

私の盆栽鉢は「個性的」だと言われたりしますが、それは要は私の不勉強が
全ての原因なんだと思っています

つまり鉢映りの常識(背の高い文人木には浅い鉢を使う、など)については
大体知っていたのですが、それ以外の事は全く知らないまま
『こういう鉢に木を植えたらカッコいいんじゃないか?』という思いつきの感覚で
鉢を作っていたのでいつの間にかこうなったのです

じゃあ盆栽鉢を作る時は鉢について全く勉強しない方がいいんだろうか?
その方がもっと斬新で個性的な鉢が作れるんだろうか?

いや盆栽について何も知らないままハート型の鉢とか作ってもどうしようも無いでしょう

それならもっと盆栽界の常識・感覚を身に付けた方がいいんだろうか?

いやそれでは今みたいに自分の鉢を珍しがってくれる人も居なかったかもしれない


やはりどちらが正解とも言えないような気がします

ただ言える事は、私自身生きている限り今のこの場所に留まり続けるという事は
出来ないという事です
望む望まないに関わらず、絶えず変化していきます
(だんだん盆栽のカンカクに慣れていくでしょうし、今の好みが
 1年後同じという事も 無いでしょう)

ほら、禅の話みたいになってきたでしょ?

鉢のデザインは禅問答のようだと書いた事がありますが、近頃はむしろ禅そのものなんじゃないかという気も…

良いとか悪いとか進歩とか後退とか、人間って何かにつけて物事を二つに区別して
安心したがるクセがあるようです

古い大きな盆栽を眺めていると、実は世の中に在るのはただ
「時間による変化」だけなんじゃないか…そう感じる時があるのです
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by 1000ray | 2010-12-28 23:38 | 雑記


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